2010年9月27日月曜日

個人史―私の失敗談(その4、素人のレストラン経営)

工場を解体するという決断をしたとき、義母と妻と3人の子供には車で伊豆の方に行ってもらいました。真っ暗闇の中を走り、小汚い民宿に泊まったときの心細かった話は後で妻から聞きました。家族が帰ってきたとき私は家にはおらず外で泊まり歩き、警察が家の周りをロープで張り巡らしている環境の中で、妻たちは夜でも電気をつけず、どこから電話がかかってきてもただ震えてじっとしているだけだったと言います。

しかし前回記したようになんとか、文字通り、「裏から手を回し」レストラン開業にこぎつけた私は、その間、リーズハウスは単なる焼肉屋ではだめだと思い、東京から横浜、千葉を回りどんなレストランにするのか考え、メニューに、キムチ・ピラフとかカルビ・スープ、鉄板の焼肉コースや韓国風ソーメンなど、私たちにしかできないものを入れた、小ぎれいなカフェレストランにすることを決めました。

あまり人手がかからず、素人でも作れる料理や喫茶ものを中心にしたのですが、お店で出す料理の経験のない義母は、私の尊敬する、在野の画家の呉炳学先生の経営する駅前の喫茶店で、ハンバーグなどの作り方を教えてもらっていました。リーズハウスは道路沿いとはいえ人の出入りが少ない場所でしたが、多くの人に愛される店になりました。

私たちがどのような生活をしていたのか、その当時、スクラップの仕事に関わるきっかけ、その仕事内容、警察の騒ぎ、レストランの開業の大変さは誰にも話すことがなかったので、多くの人は私たちが余裕でレストランを開業し保育園のことや地域活動に関わっていると思ったかもしれません。

しかし私は、亡くなった李仁夏牧師には事細かに報告をしていました。それを知る義母は、牧師が来て祈りの中で慰労し激励してくれることを願っていたようですが、祐天寺の総菜屋のときも、南加瀬でレストランを開業するまでの数年にわたる大変なときも、祈りに来てくれたことは一度もない、と失望していました。彼女はいつでもどんな時でも祈りに慰めを求める女性でした。

そのレストランも人手に渡り、間もなく解体が始まります。妻は非正規スタッフとして近くの公立保育園に復帰しもう8年になります。二度目の乳がん手術も受けたのですがすっかりと元気になり、今では還暦を過ぎた最古参ですがもっとも元気な保育士として同僚の尊敬を受け仕事に励んでいます。

そういえば最初の乳がんの手術の時彼女は20代で、義父が亡くなり私がスクラップを始めた翌年でした。医師からは3年の生存率は50%以下と言われ、自分一人の胸にしまっていたことを思い出します。その時の状況下で、彼女の気持ちを考えるとどうしても「真実」を告げることはできなかったのです。良性の腫瘍と説明したのですが、彼女はわかってだまされたふりをしていただけなのかもしれません。

私は彼女の手術方法について医師から説明を受け、転移しないため乳房全体を削ぎ落とすように切り取る、ハルステッド法といわれる手術方法を言われるがまま承諾しました。しかし後でわかったのですが、その当時すでに欧米ではそんな残酷なやり方は時代遅れとされていたのです。

私が医師の言うことをそのまま信じるのでなく、自分の納得できるまで調べなければならないと思うようになったのはその時の悔しさがあるからです。近藤誠の本を読んで、転移しないようにということで当たり前のように出された薬を止めるように彼女を説得し、本人は悩みに悩みその旨医師につげたところ、「ああそう、いいですよ」ということでした!

病院(医師)、医薬品メーカー、厚生省は一体となっており、ガン細胞を小さくし転移しないための薬というのは莫大な売り上げをあげながら、それは日本だけで使われている代物だったのです。私は近藤誠が一連の本で書いていることを納得しました。しかし彼は日本の医学界では異端児でした。

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