2010年9月24日金曜日

個人史―私の失敗談(その3、レストランを始める)

前回、娘の事故の話を記しましたが、当時3人の子供を遠く離れた桜本保育園に送り迎いしており、その事故は保育園から3人の子供をピックアップして家に帰ったときのことでした。目の前で娘が宙に浮くのを見て慌てふためいてトラックから降り娘を抱きかかえて家に飛び込んだ私は、トラックのブレークをかけず二人の息子を中に置いたまま飛び出したので、トラックはそのまま坂道を滑り下りました。

保育園の年長さんだった長男は、なんと自分と弟を守るためトラックのブレーキをかけ、木にぶっつかりトラックの正面ガラスは大破したものの、二人の息子は無事でした。本当に助かりました。

私は一人でスクラップの仕事を続け、4トン半のトラックで多いときには10トン以上の鉄屑を運んでいました。そのとき、会社のヤードをそのまま居抜きで借りたいと「在日」の同業者から話がありました。家賃が取れるし、引き取ってきたスクラップを買ってもらえるというので、私は即、承諾しました。ただし、いずれ、ヤードと倉庫を改造して家の者が食っていけるようなレストランでもと考えていた私は、そのときは出て行ってもらうという了解をもらっていました。

早くレストランを始めないと不渡りをだし義妹の結婚にも差し支えると危惧した私は、義妹の結婚式を早めてもらい無事に大阪に送ることができました。その後ヤードを戻してほしいという話をいくらしてもヤードを借りた同業者は一切返事をしなくなりました。そこで私は大晦日に、彼らの鉄屑300トンを運び出し、工場を解体する決心をしました。警察沙汰になることも予想されたので、家族はみんな旅行に行ってもらいました。

300トンの鉄屑というのは大型ダンプで50回以上も運ばなければならず、工場の解体は酸素で基礎のパイプを切らなければなりません。その手配をしてくれたのは、桜本保育園の「在日」の園児の父親で、夜中から朝にかけてやり続け、最後の鉄柱1本残ったところで警察が来ました。元従業員が通報したようです。

そこで立入禁止のロープが張り巡らされ、私は同業者から器物破損と窃盗容疑で訴えられました。勿論、300トンのスクラップは別の置き場に移しただけなので窃盗にはなりませんでした。何回か警察に呼ばれたとき、担当官から、お前ら朝鮮人同士が喧嘩しやがって迷惑だ、ということを言われたものですから、私は啖呵を切り、その足で、私を訴えた同業者の家に行きました。勿論、殴られるだろうという覚悟でした。

私を見た「同胞」は掴みかかってきましたが、一息置き、「サイ、お前は偉い」と言い始めたのです。私が家族のことを想い、こんな思いきったことをしたということを彼は理解してくれていたのでしょう。

賠償金を払うことで決着したのですが、その間、立入禁止のロープは張られたままで、時間のない私は張られたロープの反対側がちょうどマンション建設のために空き地になっていたのでそこから業者を入れて、お金はないので売り上げから支払うという条件でレストランをつくりはじめ、それから数カ月後、オープンにまでこぎつけました。メニューは全て手づくりで、徹夜で青丘社のボランティアの女性と作り上げたものです。店の名前は、義母の名字からリーズハウスLee’s Houseにしました。

コックさんは元私の同僚で今はふれあい館の理事長のB氏の紹介です。義母と妻は厨房、私はホールを受け持ち、それこそ家族総動員でまったくの素人がカフェレストランを始めたのです。2階にいた子供たちは、突然の環境の変化に戸惑い誰からもかまってもらえず、真中の娘は寂しいと泣いていたそうです。乳がんの手術後、それでも保育園で働いていた妻は保母の仕事に未練を残しながらもレストランのママになることを決断してくれました。35年前の話です。

家族でやっていた店ですが、週に何回か来てくれたコックさんを店が終わったあと、私が車で東京まで送ることになっていました。送り終えて帰宅途中、疲れきって何度も朝方まで車中で寝込んでしまいました。家の者は随分と心配したと思います。事故がなく本当に幸いでした。

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