2010年9月23日木曜日

個人史―私の失敗談(その2、スクラップの時の思い出―娘の事故)

造船場と公の施設から出るスクラップを扱う、私が義父から継いだ仕事はいずれも登録制で、入札によってスクラップを買い、それを細かくして問屋に収めることを主な業務にしていました。市場価格かそれより高い価格で入札するビジネスモデルはどうあがいても通常の仕方でやり続けることはできません。「談合」や「接待」、「超」重量オ―バの積載は当たり前のことでした。

義父と一緒にやってきた「在日」のベテラン従業員4人はある日、自分たちの条件を呑まなければ辞めると言い出しました。私のような素人、お坊ちゃんにはこの仕事はできないと踏んでの要求でした。私は即座に、呑めないと言い放ち、トラックがあれば彼らはスクラップで生活は続けられると思い、彼らに大型トラックすべてを退職金代わりに渡し、彼らの言葉通り辞めてもらいました。

残ったトラックは4トン半1台で、私の持つ普通免許で運転できたのです。自動車運転の得意でない私でしたが、義弟を助手席に乗せ、翌日から早朝、横須賀までスクラップを取りに行きました。手形が何かも知らないでスクラップの社会に飛び込み、従業員頼りだったのに、私が一人でトラックを運転してやっていくと言うので義母や妻の心配は大変なものだったでしょう。私はスクラップの仕事を3年半続けました。

いろんな思い出がありますが、なんと言っても娘の事故は忘れることはありません。当時、祐天寺で小さな惣菜屋を始めたこともあり、家族がみんな忙しく働いているときでした。3人の子供をトラックに乗せ家に帰ってきたときのことです。私が家の前の道路でヤードにトラックを入れるため駐車したとき、桜本保育園に通っていた娘が運転席の反対のドアから降り始めました。そのときバックミラーに後ろから来る自動車が見えたので思わず、危ない、と叫んだのですが、娘はトラックの前を横切り、そのまま後ろから来る車に跳ね飛ばされ、それこそ宙に舞い上がり道路に叩きつけられました。一瞬のことでした。

救急車を呼び、市立病院に運びましたが、医師は今日一日が山場、どうなるかわからないという判断でした。ぶっつかった車にはへっこみが見られ、娘はまともに顔と頭を打ったのですが、なんと顔にはかすり傷ひとつなかったのです。ぐったりとする娘を見て、私はどれほど後悔したかわかりません。しかし奇跡が起こりました。眠れない夜を過ごした翌日から娘は意識を取り戻し、その後数日入院しただけで、本当に何の怪我もなく退院できたのです。医師によると、小さな子供はマリのように衝撃を受けても飛ばされて何ともないことがあるということでした。

入院中、教会に通う私たち家族は娘が無事であったことを喜び神への感謝を捧げていたとき、神様のおかげで助かったという話を聞いた娘は、どうして同じ保育園の友達が交通事故で死んだのかと尋ねました。私は答えることができませんでした。

私はスクラップをしていたときのことを苦労と思ったことはありません。初めて経験した「在日」のなまの世界を、義父が経験したことを私もやっているという意識でした。そのときの経験を語り始めると、私は娘の事故のことを思い出すのです。

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